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神武以来の日本語の歴史(やさしいバージョン)

超かんたん3行まとめ

・「以来」を「このかた」と読むのは漢文訓読のきまりごと。

・「じんむいらい」と「じんむこのかた」、両方使えるのがほんとうの知識人。

・昭和の流行語(例えば「神武以来の天才」「神武以来の美少年」「神武以来の好景気」)の話をしているのに、これは「じんむこのかた」と読むのが正しいんですよ、などというのは間違っています。

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原田泰夫さんと田辺忠幸さんの共著『早わかり将棋なんでも入門』小学館、第44刷(1995年)、p.152より。

 

この文章は、「神武以来」という言葉の読み方について、調べて知ったことをまとめたものです。

調べをすすめていくと、日本人と漢字の関わりの歴史が見えてきました。

これは、やさしいバージョンです(未完成の別バージョン。)。

後半ではマスコミを批判することになりますが、インターネットでよくあるような「マスゴミ叩き」はしたくないと思っています。

例によって出典・参考文献の書き方がハチャメチャです。

材料として集めたけど、ここには書いていないことも、けっこうあります*1

ルビの付け方、カタカナとひらがなの書き分けなども不規則になっています。

公開後にも加筆修正しています。

以来 このかた 違い 語彙 語彙史 ひふみん 中学生棋士 神武景気

 

目次

はじめに:「神武以来」は昭和の流行語

将棋棋士加藤一二三さんを紹介するとき、たびたび使われる「神武以来の天才」という言葉がありますね。

この「神武以来」という日本語を、皆さんはどう読みますか?

・将棋界ではずっと「じんむこのかた」の天才と読まれてきた。

・『広辞苑』や『大辞林』や『難読語辞典』には「じんむこのかた」しかのっていないから、「じんむこのかた」が正しい日本語で、「じんむいらい」は正しくない日本語だ。

ときどき、こうした発言をインターネット上で見かけることがあります。

どちらも間違いです。

 

冒頭の画像は、原田泰夫さんと田辺忠幸さんの子供向け将棋入門本からの引用です*2。 

加藤かとう一二三ひふみ 九だん

(略)

五八ねんに18さいで八だんのぼり"神武以来じんむいらい天才てんさい"とさわがれました。

お二人とも亡くなられていますが、原田さんは将棋のプロ棋士、田辺さんは観戦記者です。

原田さんは、たくさんのプロ棋士にキャッチフレーズを付けたことで知られています。

十六世名人の中原誠さんの自戦記に、こう書かれています*3

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「神武以来の天才」とは、例によって原田泰夫さんの命名です。

中原誠中原誠実戦集-2-タイトルをかけて』大泉書店、1974年、p.239。

熱心な将棋ファンなら、田辺忠幸さんのこともご存知と思います。

田辺さんは「将棋会館」が、しばしば「東京将棋会館」と書かれてしまうのに苦言を呈し、「東京・将棋会館」と書くことを提案するなど、言葉づかいにうるさい人でした*4

このように、「神武以来の天才」の名付け親とされる原田泰夫さん*5、そして言葉づかいにきびしい観戦記者田辺忠幸さんの共著に「神武以来じんむいらい天才てんさい」と書かれています

このことだけでも「将棋界ではずっと「じんむこのかた」と読まれてきた」という説は間違いだとおわかりいただけたと思います。

 

1988年度のNHK杯テレビ将棋トーナメントで加藤一二三さんと羽生善治さんが対局しました(対局・放送は1989年)。

将棋ファンの間では、「5二銀」という素晴らしい手の出た一局として有名で、2020年に再放送されたのをご覧になった方も多いと思います。

その放送の中で、聞き手で雑誌『近代将棋』創設者の永井英明さんが、加藤さんの若い頃を振り返り、「じんむいらい」の天才と呼ばれたといっています。

引退前後の加藤さんを題材にした、NHKのドキュメンタリー番組のDVD『加藤一二三という男、ありけり。』の冒頭では、雑誌『将棋世界』元編集長の大崎善生さんが「じんむいらい」の天才といっています。

 

加藤さんが18歳で八段(A級棋士)になる1年と少し前、1956年(昭和31年)の暮から「神武以来」という言葉が流行語になりました。

これは「神武天皇の時代以来」、「日本国はじまって以来」といった意味で、当初は好景気を形容するのに使われた言葉でしたが、さまざまなものごとにも「神武以来の○○」という形で応用されました。

加藤さんの「神武以来の天才」や、美輪明宏さんの「神武以来の美少年」も、その流行をふまえたものです。

ただし「神武以来」は当時の新語ではなく、もっと前からある言葉ですが、それについてはこの記事の中盤に書いています。

「神武以来」を、「じんむこのかた」ではなく「じんむいらい」と読んでいた原田さんや田辺さんや永井さんや大崎さんは、間違った日本語を使っているのではありません。

昭和の流行語としての「神武以来」は、「じんむいらい」と読まれるのが普通だったからです。

 

 

どうしてそうなのかというと、「神武以来」が流行した昭和30年代の日本人は、学校の国語の勉強で、「以来」を「いらい」と読む教育を受けてきたからです(これは現代日本人も同じです)。

もっというと、当時も今も、国が定めた現代日本語表記の目安に従うなら、「じんむいらい」が正しいのですが、そのことはこの記事の終盤に書いています。

「このかた」とも「いらい」とも読まれていた熟語「以来」の読み方において、「いらい」が主流になっていく背景には、江戸時代中期、18世紀の知識人たちの意識変化があると考えられるのですが、それは、これからこの記事で、古代から順を追って述べていきます。

 

中国語の「以来」が古代の日本に入ってきて「このかた」と読まれるようになった

漢文訓読

「以来」を「このかた」と読むのは、なぜ?と不思議に思っている人は多いのではないかと思います。

「以来」を「このかた」と読むのは、大昔の日本人に中国語を理解させるための決まりごとです。

一言でいうと漢文訓読くんどくです。

 

大昔、日本語には文字がありませんでした。

話し言葉はあるけれど、書き言葉がない、という時代がありました。

聖徳太子の時代よりも前、中国から日本に漢字が入ってきました。

それを借りて日本語を書いたり読んだりするようになったのが、日本語における文字のはじまりです。

 

日本語で使っている漢字の読み方には「おん」と「くん」がありますね。

「音」は中国語の漢字の発音を元にした読み方です。

「訓」は、ある漢字に、その漢字が表している中国語の意味に近い和語わごを当てはめた読み方が、定着したものです。

「和語」とは、もともと日本語にあった言葉で、「やまとことば(大和言葉)」ともいいます。

「和語」に対して、「漢語かんご」は、いろいろな定義があるのですが、この記事では、もともと中国で使われていた、漢字で書く言葉が日本に入ってきて、日本語としても使われるようになったものをいいます。

例えば「山」という漢字は音読みでは「サン」ですね*6

昔の日本人が「山」という漢字を理解する際に、その漢字が意味する中国語に近い意味の言葉である「やま」という和語を結びつけて読むようになりました。

そういうふうに、漢字に和語が結びついて定着したものが「訓」です。

 

「以来」を、「このかた」と読むようになったのも、同じようなことです。

中国語の文章(漢文)を、大昔の日本人が理解できるようにするため、文中の単語(漢語)の順番を入れ替えたり、漢語に和語を当てはめて読むようになりました。

これが漢文訓読です。

単に訓読ともいいます。

訓読に対して音読おんどくという言葉があります。

現代では音読といえば、単に文章を声に出して読むことをさす場合が多いですが、訓読に対する音読は、漢文や漢語や漢字をおんで読むことです。

「以来」は、もともと中国語です。

中国語としては「イライ」のような発音で、意味は英語でいうとsinceです。

現代の日本語教育を受けた人なら、「以来」を「いらい」と読むのは当たり前で、その意味もわかりますね。

ですが、中国語・漢文を学びはじめた大昔の日本人にとって、「以来」は漢文の中に出てくる、よくわからない外国語でした。

それで、漢文中の「以来」を、日本人の漢文学習者が理解できるように、先生*7が、これは「いらい」のように発音しますが、意味は「このかた」ですよ、というふうに教えました。

「このかた」は、現代語でいうと、「あの」「この」「その」の「この」に、方向を意味する「かた」がくっついた言葉で、「こちらがわ」を意味します。

生徒たちは漢文に出てくる中国語の熟語「以来」を、和語「このかた」で理解し、そう訓読するようになりました*8

「以来」を「このかた」で読むのは一種の翻訳ともいえます。

このように、漢文を訓読する際、中国語の熟語(熟字)「以来」を、「こちらがわ」を意味する和語「このかた」で理解し、読むようにしたのが、熟字訓「以来このかた」のはじまりです。

「以来」を「このかた」と読むようになった具体的な年代はわかりませんが、平安時代にはそう訓読するようになっていました。

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自後以来 ソレヨリコノカタ

興福寺蔵『大慈恩寺三蔵法師伝』巻第六、永久四年(1116年)点*9

 

なお、「以来」だけでなく、「已来・来・以降・已降・以後・以還・已・已去・去」なども、「このかた」と読まれることがありました*10

つまり「同訓異字」が多くできました。

これは、中国語は語彙が多く、和語は語彙が少なかったためです*11

英語で例えると、lookもwatchもseeもgazeも、「みる」と訳すようなものです。

 

また、現代の中学校や高校で漢文教育を受けた読者の皆さんの中には、漢文訓読のやり方(読み方)にはたった一つの正解があると思い込んでいる方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではなく、漢文訓読には流派*12や個人による読み方の差があり、時代による変化もありました。

江戸時代に起こった「このかた」→「いらい」という読み方の変化については後で述べます。

平安時代の「このかた」は訓点特有語

平安時代の日本語の書き言葉には、漢文とその訓読文の「漢文脈」と、物語や和歌などの「和文脈」という二つの流れがあり、二つは区別されていました。

和歌には基本的に漢語は使われません。

訓読文には平安時代よりも古いかたちの日本語が、化石のように残っているといわれています*13

平安時代の言葉としての「このかた」は、ほとんど漢文訓読でしか使われない、「訓読特有語」とか「訓点特有語」と呼ばれるものです。

訓点」というのは、訓読のために漢文につけられた記号やカナのことです。

訓点」のつけられた文書などの資料を「訓点資料」といいます。

「このかた」は、和文脈では「こなた」に相当する言葉です。

源氏物語』に一例だけ「このかた」が登場しますが、きわめて珍しい例とされています。

 

現代人の読者の皆さんは、「以来」を「このかた」と読むと、何か古めかしい感じをいだくかもしれません。

平安時代の人々にとっても「このかた」は古い言葉で、日常的な話し言葉には使わなかったと考えられ、もっぱら漢文を訓読する時に使う、いかめしい雰囲気の言葉と感じていたのではないかと思われます。

 

「以来」が漢文訓読によって「このかた」と読まれるようになったいきさつをここまで書いてきましたが、「いらい」という中国語の音に即した、音読が滅んだわけではありませんでした。

平安中期、遣唐使の廃止により、中国との公式な交流が途絶えたことで、音読は衰退したといわれていますが、二巻本『色葉字類抄』などの古辞書に「以来 イライ」という記述があるので、「以来」を「いらい」と読む音読も残っていたことがわかります。

ただし、江戸時代よりも前の時代の辞書は、今のように出版されるものではなく、手で書き写すものでした*14

ですから、その頃の辞書を手に取れた人は、知的エリート層に限られていました。

中国語音で漢文・漢詩を読み書きする貴族や、お経を音読する仏教徒(僧侶)といった知識人は、「いらい」「このかた」、音訓両方の読み方ができたはずです。

 

ところで、ここまでは、「以来」をどう読むか?という方向から話をしてきました。

日本人は、漢文訓読によって、漢語「以来」を和語「このかた」で読むようになったという話をしてきました。

逆に、和語「このかた」をどう書くか?という方向から考えることもできます。

和語「このかた」を漢字で「以来」と書くようになった(他の漢字表記や仮名表記、漢字仮名まぜ書き表記もある)といえます。

「このかた」で読む、とか、「以来」と書く、と述べたのは、他の読み方や書き方もあるということで、今野真二さんが『正書法のない日本語』(2013年、岩波書店)で述べているように、読み方や書き方に選択肢があるのが日本語の特徴といえます。

 

鎌倉時代、和漢の混淆

平安時代末期から鎌倉時代になると、和文脈と漢文脈が混じり合っていきます。

そうしてできた文章は、和漢混淆文(わかんこんこうぶん)と呼ばれます。

平家物語』に

神武天皇より以来このかた(「二代后」。他の漢字表記、仮名表記がされている本もある。)

とあったり、

平治物語金刀比羅宮本に

保元ほうげん以来いらゐ岩波書店日本古典文学大系』31巻、p.193。)

とあったりします。

mobile.twitter.com

16世紀になると日本にキリスト教徒が入ってきますが、来日したカトリックの宣教師たちがつくった『日葡辞書』にも「いらい」「このかた」両方の見出しがあります*15

当時のキリスト教徒がつくった本(キリシタン版)には、「御出世以来(ごしゅっせいらい)」という言葉も出てきます。

これは「イエス・キリストが世に出て以来」という意味で、この言葉の後に数字がつくと、現代でいう「西暦」と同じで、キリスト誕生以来の年数をあらわします。

 

江戸時代の訓読批判

訓読から音読へ

江戸時代の頃になり、中国語の学問が発達すると、漢文訓読への疑問、批判が出てきました*16

どういう疑問、批判か簡単にいうと

日本人は漢文を訓読して理解したつもりになっているが、それは漢文を訳した日本語を読んでいるのに過ぎず、中国語として正しく理解できていないのではないか?今までのような漢文訓読をしていても、正しく中国語を読み書きする能力は身につかない(だから漢文は音で直読したほうが良い)。

ということです。

これを英語で例えると「I love you.」という英文があったときに、下の図のように読み仮名や返り点等の訓点をほどこし、「アイラヴユー」という読みをすっとばして、「わたしはあなたをあいする」と読み理解する。それではほんとうに英文を読んだことにならないではないか、という批判です。

 

特に知られているのは、荻生徂徠と弟子の太宰春台による漢文訓読批判・和習批判です*17(「和習」というのは日本人が漢文を読んだり書いたりするときに出てしまう、日本的な癖のことで、「和臭」とも書かれます)。

例えば、太宰春台は「視・察・見・看」などの漢語は、本来それぞれ意味が異なるのに、訓読すると、すべて和語「ミル」になってしまうと述べています。

 

漢文訓読法には複数の流派があり、流派による読み方、つまり訓点の違いがあります。

それぞれの訓読法・訓点は、その読み方をはじめた人の名をとって「○○点」と呼ばれます。

江戸時代前記を代表するのは林羅山による道春点*18、後期を代表するのは後藤芝山による後藤点です*19

江戸時代後期には、幕府が武士の子供たちに、漢文(四書五経)の読みの試験を実施するようになりました。

この試験は「素読吟味」と呼ばれ、後藤点はそのテキストとして使われました。

www.archives.go.jp

 

四書の一つ『孟子』に「自有生民以来、未有孔子也」という一節があります。
この「以来」は、後藤点では「イライ」です。

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左画像は、国会図書館デジタルコレクションより明治14年(1881年)版の後藤点
右画像2つは、道春点で、「コノカタ」です(早稲田大学図書館の元禄8年(1695年)版、pdf2の14と、天保3年(1832年)版、pdf8の12)。
道春点本の「以来」の「以」と「来」の間、左側にある小さい縦棒は訓読みすることを表す記号、訓合符(くんごうふ)です。

このように、江戸時代初期を代表する訓点「道春点」では「コノカタ」だった「以来」の読み方が、後期代表の後藤点では「イライ」になりました。

江戸時代の漢文訓読における主流派の交代においては、音読する漢語が増えていくという流れがありました。

いいかえると、漢文脈では、江戸時代を通じて、訓読から音読へという流れがあったのです。

 

近松門左衛門の作品に「じんむいらい」が登場する理由

成句としての「じんむいらい」、「じんむこのかた」の使用が資料で確認できるのは江戸時代から*20で、古くは17世紀の井原西鶴の作品に登場します。

ただし、西鶴作品での表記は「神武此かた」であり、「神武以来」と書いて「じんむこのかた」と読ませているものはありません(「神代以来」と書いて「かみよこのかた」と振り仮名を付ける作品はある。)。

17世紀の資料は残っているものが少ないので、西鶴作品しか調べられていません*21

 

江戸時代になると辞書が出版されるようになりました。

上で述べたように、それまでは辞書は書き写すものでしたから、辞書を手に取ることのできる人は限られていました。

辞書が出版されるようになると、それまでの時代より多くの人の語学的知識が向上しました。

これは『節用集』と呼ばれる辞書の一つです。

このような辞書で学んだ江戸時代の日本人は「以来」を「いらい」とも「このかた」とも読めるようになったし、「このかた」を「以来」とも書くことができるようになったでしょう。

 

18世紀になると、近松門左衛門浄瑠璃作品に「じんむいらい」と「じんむこのかた」の両方が登場します。

近松の正徳2年(1712年)の作品『嫗山姥』の「廓噺の段(くるわばなしのだん)」に、「神武以来の悋気諍い(じんむいらいのりんきいさかい)」という一節が登場します。

「悋気」は「焼きもち」という意味で、「諍い」は「ケンカ」、つまり「悋気諍い」は「痴話ゲンカ」のような意味です。

清元『文売り』はこれを元につくられ、この曲にも「じんむいらい」は出てきます。

 

この「神武以来」は、なぜ「じんむいらい」なのか?考えてみました。

当時の知識人が、「以来」を「いらい」とも「このかた」とも読めた、つまり選択できたのはすでに述べた通りです。

浄瑠璃は語りを聞かせる芸能ですから、リズムが大事です。

言語学でリズムの単位を拍(はく)と言います。

「神武以来の悋気諍い」を二つに分けると、「じんむいらいの」で7拍、「りんきいさかい」も7拍になります。

これは和歌の下の句と同じで、七五調で安定する日本語のリズム に合っています。

「じんむこのかたの」と読んでしまうと、8拍になって語呂が悪く不安定ですね。

「いらい」の「らい」と「いさかい」の「かい」で韻を踏めます。

「じんむ」の「じん」と「りんき」の「りん」も頭韻になっています。

こういった押韻も意識されていたかもしれません。

江戸時代を代表する文学者の一人である近松門左衛門は、こういった考えから『嫗山姥』では「じんむいらい」を選択したのではないでしょうか。

ついでにいうと、「神武以来の天才」も、「じんむいらいのてんさい」と読めば、「以来」の「らい」と「天才」の「さい」で韻を踏めますね。

 

近松の代表作の一つ『冥途の飛脚』にも「神武以来」は出てきます。

これは正徳元年(1711年)の初演版だと「じんむこのかた」なのですが(そして現在演じられる際も「このかた」が普通のはずですが)、文政3年(1820年)の復活上演版では「じんむいらい」になっています*22

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早稲田大学図書館所蔵(ニ10-00695)、p.23の右から5行目。

これも、訓読から音読へという江戸時代の流れにのったものかと考えています。

 

ちなみに、平賀源内作の浄瑠璃『長枕褥合戦』にも「じんむいらい」の振り仮名のある「神武以来の」が登場します。

 

このように、江戸時代の知識人にとって、「神武以来」は、「じんむいらい」か「じんむこのかた」かを選択できる言葉だったといえます。

 

 

歌舞伎DVDに収録されている、市川團十郎や市川左團次のセリフに登場する「じんむいらい」はこちらを参照してください

 

僕が知る限りでは、「神武以来」の下に「の」と名詞がくっついて、「神武以来の<名詞>」という形になっている江戸時代の文章は他に数例あるのですが、どの「以来」も「いらい」と読まれていたり、振り仮名のないもので、「このかた」と読まれているものはありません。

「以来」の部分が、「この方」や「此方」別表記になっているものでも、下に「の」と名詞がくっついているものは見つけていません。

江戸時代の文章で「神武このかたの<名詞>」という形になっているものをご存知の方は教えて下さい。

井原西鶴の『日本永代蔵』巻4、貞享5年(1688年)には「蓬莱は神代(かみよ)此かたのならはしなればとて」とあるので、17世紀の文章にはあるかもしれません。

 

※追記 

神武以来の<名詞>、江戸時代の『猿源氏色芝居』にあるようです。

 

大正時代にもありました。

 

明治・大正・昭和初期の「以来」

国定国語教科書も「以来」は「いらい」

ここからは国立国語研究所の『国定読本用語総覧』シリーズを利用して、明治以降の国定教科書を見ていきます。

結論を先にいうと、明治にはじまった国定国語教科書では、「以来」はずっと「いらい」と読むように教えられてきました。

 

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左は文部省 『小学国語読本』巻五、大阪書籍、1919年(昭和8年)、p.2。
右は文部省 『小学国語読本』尋常科用巻九日本書籍、1938年(昭和13年)、p.169。

ここで「神代此の方」、「神代このかた」と表記されている言葉は、「神代以来」とも書き得る、読み方も「かみよいらい」、「かみよこのかた」両方ある(「じんだいいらい」などもある)言葉ですが、ここでは「このかた」を「以来」とは書いていません。

同じページに「国初以来」、「祖先以来」という言葉も並んでいます。

この「以来」を「このかた」と読ませるなら、かな書きしているでしょう。

 

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文部省 『小学国語読本尋常科用巻七編纂趣意書・小学書方手本尋常科用第四学年上編纂趣意書』 東京書籍、1936年(昭和11年)、p.10
付録「漢字の読方」。
国立国会図書館デジタルコレクションより。

 

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文部省 『高等小学修身書』 第二学年児童用日本書籍、1910年(明治43年)、p.28。

広島大学図書館教科書画像データベースより。
これは国語ではなく、修身の教科書です。

「開闢以来」の「以来」も「神武以来」と同様に、「いらい」とも「このかた」とも読まれてきた言葉ですが、この教科書では「いらい」です。

 

昭和30年代に「神武以来」が流行語になった時の日本人の大半は、このように「以来」を「いらい」と読む教育を受けた人たちです。

そういった人たちが「神武以来」を「じんむいらい」と読んだのは当たり前のことといえましょう。

明治・大正・昭和初期の新聞の「神武以来」

このように、神戸大学附属図書館の新聞記事文庫で検索できる記事には、「じんむいらい」と振り仮名がついているものしかありません。

これも江戸時代中期からの、「以来」は音読するという流れにのったものではないでしょうか。

 

ただし、「このかた」を「以来」と書く表記法は滅んだわけではなく、明治期の小説などで確認できます。

そう書くことで、古色を出しているとも考えられます。

 

戦前の『朝日新聞』を聞蔵Ⅱで検索すると、明治43年(1910年)6月2日には、見出しでは「じんむいらい」、本文では「神武より以来」に「じんむ このかた」とルビが振られている例があり、「じんむこのかた」ルビの記事がもう一件ヒットします*23

 

『読売新聞』の明治24年(1891年)2月18日には「じんむいらい」の振り仮名のある「植民開拓は神武以来の国是なり」という一節があります。

戦後、漢字制限で「以来」を「このかた」と読めなくなった

当用漢字表常用漢字表

「日本語には漢字が多すぎて、教育のさまたげになっているから、漢字を制限しよう」という考えが江戸時代の終わり頃から出てきます。

それが国の制度として実現するのは戦後の当用漢字表からです。

当用漢字表は、現在では制限色は薄くなっていますが、常用漢字表と名前を変えて残っています。

当用漢字表常用漢字表では、使える漢字の種類を制限するだけでなく、音訓表によって漢字の読み方も制限しています。

両漢字表は時おり改定されましたが、その中で、「以来」を「このかた」と読む、または「このかた」を「以来」と書くのが認められたことは今まで一度もありません。

当用漢字音訓表の熟字訓

現在の常用漢字表の音訓索引

当用漢字表(内閣告示第三十二号)の冒頭に、こうあります。

現代國語を書きあらわすために、日常使用する漢字の範囲を、次の表のように定める。

 昭和二十一年十一月十六日

      内閣総理大臣 吉田 茂

   当用漢字表

    まえがき

一、この表は、法令・公用文書・新聞・雑誌および一般社会で、使用する漢字の範囲を示したものである。

昭和32年度の『経済白書』の序言には「神武以来と称された未曽有の好況」という言葉が出てきます。

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その下の「𧦅歌(謳歌)」の「𧦅」も当用漢字表にない字(表外字)なのに使われているので、↓この意見は撤回します。

『経済白書』は公用文書のはずで、公用文書は当用漢字表に従って書かれなければならず、そうすると、この「以来」は「このかた」とは読まず、「いらい」と読まなくてはいけません*24

 

国会会議録

国会会議録を「神武以来」で検索すると、

該当会議録:261件 / 該当箇所:335

がヒットし、
「神武このかた」では1件1箇所
「神武この方」では2件2箇所

がヒットします。

国会会議録にも書き方の基準があります。

「神武以来」が流行していた当時は『国会会議録用字例』、現在では衆参両議院それぞれに『会議録用字例』というものがあり、基本的に当用漢字表常用漢字表に従って書くことになっています。

国会会議録でも「以来」を「このかた」と読んだり、「このかた」を「以来」と書くのが認められたことはありません。

令和3年に出た『衆議院会議録用字例』では、「以来」は「い」の箇所にあり、「このかた」は「こ」の箇所にあって「五年この方」という例が示されています。

ですから、国会会議録に記載された「神武以来」も「じんむいらい」なのです。

 

将棋の駒の動かし方にルールがあるように、現代日本語の漢字表記と読み方にも常用漢字表(かつては当用漢字表)、そしてその音訓表というルールがあります。

当用漢字表常用漢字表の音訓表に従って書かれた日本語の現代文に出てくる「神武以来」の「以来」は、「いらい」と読むのがルールにかなっています。

ここ数年、マスコミが「神武以来」という昭和の流行語を使う時、そこに「じんむこのかた」とか、「以来」の部分に「このかた」と振り仮名を付けることがあります。

これは「以来」を「このかた」と読むのは常用漢字表では認められていない表外の読み方、ルール外だからです。

そして、ここ数年のマスコミが使う、昭和の流行語に対する「じんむこのかた」という振り仮名は、これから述べるように、誤解に基づいています。

 

三島由紀夫の「「神武以来」考」

 

辞書の誤読

「じんむいらい」が間違った日本語だというのは、これまで述べてきたように誤解なのですが、その誤解の根拠として、『広辞苑』や『大辞林』には「じんむこのかた」しかのっていないから、といわれることがあります。

そういう意見は辞書の誤読です。

現在の版とは違いが少しあるかも知れませんが、『広辞苑』には第二版から上のように書かれています。

この『広辞苑』が示しているのは

・「じんむこのかた」という言葉がある。

・「じんむこのかた」の漢字表記として「神武以来」がある。

ということです。

・「じんむいらい」という日本語はない。

・「神武以来」を「じんむいらい」と読むのは間違い。

とは『広辞苑』には書いていないのです。

これは『大辞林』や『難読語辞典』も同様です。

また、用例の『西鶴織留』は「神武以来」ではなく、「神武此かた」で、これは原典を確認しないとわからないようになっています。

飯間浩明さんの『辞書を編む』や、三浦しをんさんの『舟を編む』文庫版の岩波書店辞典編集部の平木靖成さんの解説などに書かれているように、紙の辞書にはページ数の制限があり、辞書をつくる人たちは記述を簡潔にしたり、省略したりすることに心血を注いでいます。

広辞苑』や『大辞林』のような中型辞書に「じんむいらい」がのっていないのはそのためではないでしょうか。

なお、大型辞書の『日本国語大辞典』には「じんむいらい」ものっています。

『角川古語大辞典』にものっています。

 

2021年末に出版された『三省堂国語辞典』第八版でも「神武以来」は「じんむいらい」とも「じんむこのかた」とも読むことが示されています。

広辞苑』や『大辞林』の記述を、ある日本語がないとか、間違っているとかの根拠に使うべきではありません。

そういうことをしがちな人(いわゆる日本語警察)は、まず『日本国語大辞典』を引くようにしてください。

もちろん『日本国語大辞典』の記述が結論ではなく、そこが言葉調べのスタート地点です*25

 

現代、マスコミがネット情報をコピペしてしまう時代

※古いまとめも参考に

僕の考えでは、「神武以来」は「じんむこのかた」と読まなくてはいけないという誤解が特に広まったのは、2015年夏にウィキペディア加藤一二三さんの項目に「じんむこのかた」という読み方だけが投稿され、同年11月、NHKEテレ将棋番組『将棋フォーカス』の加藤一二三さん特集で「じんむこのかた」という読み方が放送されてからです*26

それ以降、朝日・毎日・読売の3大新聞でも、昭和の流行語の「神武以来」に「じんむこのかた」と振り仮名をつけたり、「以来」の部分に「このかた」と振り仮名を付けたりするようになりました。

『将棋フォーカス』といえば、2021年にこのような無断転載事件がありました。

NHK将棋番組、他サイトの表現「パクリ疑惑」認め謝罪「安易に使ってしまった」 - 弁護士ドットコム

2015年当時のスタッフと、この無断転載に関わったのが同じ人物かはわかりません。

 

「神武以来」が登場する昭和のニュース映画のうち、放送ライブラリー昭和館で見ることのできるものを調べた結果がこれです。

このように、見ることができたニュース映画では、すべて「じんむいらい」と読まれていました。

NHK朝日新聞社も、他のマスコミも、過去の自社の映像や文献を調べれば、流行語の「神武以来」が「じんむいらい」と読まれていたのはわかるはずなのに、それをせず、ウィキペディアなどのネットから手っ取り早く得られる情報、インスタントな知識をコピペして番組や記事をつくるようになってしまったとしたら、嘆かわしいことです。

まとめ

日本人が漢字を読むようになって以来、どの時代においても、ほんとうの知識人は「以来」を「いらい」と読むことができました。

「以来」が「このかた」と訓読された古代から中世、そして訓読から音読へという流れがあった江戸時代を経て、「神武以来」という言葉が流行した昭和30年代には「以来」は「いらい」と読むのが普通になっていて、「神武以来」も「じんむいらい」と読まれるのが一般的でした。

ですから、昭和の流行語の話をしている時、例えば加藤一二三さんの「神武以来の天才」や美輪明宏さんの「神武以来の美少年」の話をする時に、「神武以来」は「じんむこのかた」と読むのが正しくて、「じんむいらい」は間違いですよ、などというのは、親切心から出たものかもしれませんが、大間違いです。

現代日本語の漢字表記のルールである当用漢字表常用漢字表でも「以来」を「このかた」と読む、または「このかた」を「以来」と書くのは認められていません。

ただし、現在の常用漢字表の前書きには、「この表は、(略)個々⼈の表記にまで及ぼそうとするものではない。」と書いてありますから、個々人は「じんむこのかた」を「神武以来」と書いてもいいし、「神武以来」と書いて「じんむいらい」と読ませても「じんむこのかた」と読ませても、どちらでも好きな読み方にしていいのですが、当用漢字表または常用漢字表に従って書かれたことがはっきりしている文章に出てくる「神武以来」は、「じんむいらい」です。

「じんむこのかた」を、常用漢字表の範囲内で漢字を使って書きたい場合には、「神武以来」とは書けませんから、「神武この方」とか「神武このかた」と書くことになります。

 

(本文終わり。2021年11月24日公開。最終更新日、2024年2月12日。)

 

不完全参考文献リスト

本文と注に出てこない、参考になった文献の一部です。

 

沖森卓也(2011)『日本の漢字1600年の歴史』、ベレ出版

亀井孝(1957)「古事記は よめるか」『古事記大成 3 言語文字篇』pp.97-154平凡社

今野真二(2020)『振仮名の歴史』、岩波書店 ほか多数

鈴木直治(1975)『中国語と漢文 訓読の原則と漢語の特徴』、光生館

高島俊男(2001)『漢字と日本人』、文春新書

田島優(2017)『[あて字]の日本語史』、風媒社

鄧慶真(2000)「時間語彙に接続する「サル」についての一考察 『万葉集』を中心に」、『叙説』第28号pp.58-77、奈良女子大学國語國文学研究室

中田祝夫(1954)『古点本の国語学的研究 総論篇』大日本雄弁会講談社

福島直恭(2019)『訓読と漢語の歴史[ものがたり]』、花鳥社 

村上雅孝(1998)『近世初期漢字文化の世界』、明治書院

吉永孝雄(1974)「丸本歌舞伎と人形浄瑠璃」、『季刊 歌舞伎』第26号pp.82-96、松竹株式会社演劇部

*1:例えば「神武」という漢風諡号について。見坊豪紀『ことばのくずかご』に採集された用例。など。

*2:この本は刷によって内容が違う。42刷では、「以来」の部分はひらがな。「神武じんむいらいの天才てんさい」になっている。この本のことはむにえなさんのツイートで知りました。

*3:これは将棋ライターの松本博文さんのツイートで知りました。

*4:田辺忠幸(2003)『最古参将棋記者高みの見物』、講談社

*5:後述するように「神武以来」というのは当時の流行語だから、「神武以来の天才」というフレーズは、原田さんがいい出さなくても、誰かが使っていただろうとは思います。

*6:「セン」はここでは略。

*7:中国や朝鮮からの渡来人や、中国に留学して帰ってきた日本人僧侶らと考えられる。

*8:この記事では触れていない事柄:大学寮と音博士。『万葉集』3299番歌の空間的「このかた」(「是方」、「己乃加多」)、4122番題詞の「以来」。『懐風藻葛野王伝記の「神代以来」。『将門記』の「神代以来」。

*9:築島裕(1965)『興福寺大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究 訳文編』東京大学出版、p.207。

*10:築島裕平安時代の漢文訓読語につきての研究』、同『興福寺大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究:研究篇』のほか『訓点語彙集成』、『訓点語辞典』を参照。

*11:築島裕著作集』第1巻、汲古書院、2014年、p.6。

*12:博士家。

*13:「化石」という表現は、中田祝夫か小林芳規の著作にあったように記憶しているが具体的な箇所は失念。

*14:今野真二(2014)『辞書からみた日本語の歴史』ちくまプリマー新書

*15:「幼少よりイライ」

*16:ここでは岐陽方秀のことや『桂庵和尚家法倭点』などは略。

*17:荻生は『文戒』、『訳文筌蹄』、『訓訳示蒙』。太宰は『倭読要領』。

*18:道春は林羅山の別名。

*19:齋藤文俊 『漢文訓読と近代日本語の形成』 勉誠出版、2011年。

*20:神皇正統記』の用例は成句とは考えない。

*21:勉誠出版全集の索引を利用。

*22:上演時期については坂本清恵さんの論文を参照しました。

*23:明治31年(1898年)6月2日、「神武以来無い図の店立(たなだて)」。

*24:ただし、同年度の『厚生白書』には副題に「疾病」という言葉が出てくるが、「病」を「へい」や「ぺい」と読むのは当時の音訓表では認められていなかったから、『白書』であっても、厳密に音訓表通りに書かれていないこともあるようです。

*25:今野真二さんの著作に度々書かれているように、『日本国語大辞典』にのっていない言葉も幾らもあります。

*26:それ以前に出版された「神武以来」の読みに関する誤解が書かれた本としては、前田勇(1964)『近世上方語辞典』、谷沢永一(2003)『知らない日本語 教養が試される341語』がある。