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「低能」と「低脳」

目次

この文章は2015年に大部分を書き(未発表)、2019年に加筆したものです。4年間で情報が更新された箇所もあるとは思いますが、本旨は変わりません。参考文献の書き方の不統一など、お見苦しい点もあります。公開後も加筆修正しています。

はじめに

ていのう[低能](名・形動ダ)知能がふつうよりおとる<ようす/人>。 派生 低能さ。

三省堂国語辞典』第七版

てい-のう【低能】<<名・形動>>脳の発育がおくれ、ふつうより知能がおとっている・こと(人)。

『学研現代新国語辞典』改訂第五版

現在出版されている辞書で「ていのう(低能)」を引くと、上のように「知能が低い(劣る)さま、人」という意味が記されているはずである(『学研現代新国語辞典』のように、その原因を記すものもある)*1
だが、「低能」という日本語が考案された当初は、そのような意味ではなかった。

法医学・精神医学用語として考案された「低能」

低能ナル語ノ原語ハこほ氏ノ(Psychopathische Minderwertigkeit.)ナル語ヲ東京帝国大学医科大学教授片山博士ガ法医学上ノ意義ニ於テ精神病者ハ責任無能力者、健全者ハ責任能力者(刑法第三十九章及其附則ヲ見ルベシ)トシ其中間ニ位スル所謂中間精神状態ニアルモノヲ称シテ低能ト訳セリ

(榊1909:429-430)

石川貞吉*2、榊保三郎*3、樋口長市*4の著作によると、「低能」という日本語は東京帝国大学医科大学で法医学教室および精神病学教室の教授を務めた片山國嘉*5*6によって考案された(石川1905)(榊1909)(樋口1911)
明治後期、19世紀末から20世紀の初頭にかけて、片山は日本の刑法に限定責任能力(軽減責任能力)の制度を導入することを望み*7、犯罪を為した当時、健常者と精神病者の中間状態にあった者には、健常者と同じ刑を科すのではなく、無罪にするのでもない処置が必要だと論じた(片山1899)
その際、ドイツの医者ユリウス・コッホ*8によるドイツ語「psychopathische Minderwertigkeit」を訳し、「精神の病的状態と健常状態の中間状態」を意味する言葉として「低能(者)」(片山1899)、「(精神…)病的低能(者)」(片山1901)、「病性低能」(片山1910)として用いた。

「低能」の初出は、1899年11月15日発行の『済生学舎医事新報』第83号に掲載された同年10月の国家医学会第十三次総会における片山の講演録中にある。
片山はそこで、「意志の自由」、「善悪是非を識別し得る心」、「裁決の能力」のある者(健康者)と、ない者(精神病者)の間には「半ば自由あるが如く半ば自由なきが如き」区別の困難な中間状態が存在することを説明し、そのような刑法上の「責任能力者」と「無責任者」の中間状態にある者は、

独逸にては如此者は低能者と称して所謂軽減責任能力者と見做して其罪を軽減するなり

(片山1899:992)

と述べている*9

つまり、片山によって考案された「低能」には、精神能力の中でも特に、物事の善悪を弁識する能力が健康者より低く、刑法上の責任能力が健康者より低い、しかし精神病者や白痴(片山は白痴を精神病に含めている)のように無能力ではない、という意味が込められていた。

片山は新刑法に「低能者」という言葉を盛り込むことを望んだ(片山1899:993)が、結局は以前から民法の中にあった「心神耗弱者」が採用された*10

なお、コッホの「psychopathische Minderwertigkeit」は片山の後任の精神病学教室主任教授である呉秀三富士川游によって「精神病的低格」と訳され(石川1905)(富士川・呉・三宅1910:9)(呉1913:2)、現在の精神医学においても通常、「精神病質低格」(中田1976)(中谷2004)、「精神病質様低格」(福島1993)、「精神病質的低格」(小林ほか1993)と、「低格」を用いて訳される。

教育学用語化した「低能」

「低能」という言葉は片山の主任教授時代に精神病学教室で助手を務め、1901(明治34)年からは高等師範学校で教育病理学を担当した榊保三郎によって教育学に導入された(平田1996:42-44)
教育界においては、「低能者」や「低能児童」や「低能児」という形で、1907(明治40)年までに岩手県や長野県の小学校や、東京市の吃音矯正施設・楽石社の伊澤修二と、伊澤に協力した心理学者の元良勇次郎によって使用されていたが、特に乙竹岩造による1907(明治40)年11月の帝国教育会高等学術講義と、その講義を元にした書籍『低能児教育法』の出版(1908年)によって「低能」という言葉は日本の教育家に普及した(樋口1908)
同時期の新聞記事・広告*11などによって一般大衆にも浸透していったと考えられる。

ただし、乙竹が『低能児教育法』で使用した「低能」は、ベルギーの医者・教育家のドモール*12の理論を援用したもので、「心理的状態が通常の小供に較べると二年乃至三年遅れて居る」(p.212)「白痴或は愚鈍」、「道徳上の劣弱」、「智力上の劣弱」(p.218)「大脳を有って居らぬのと同じ」(p.220)といった状態を含み*13、片山が使用した「Minderwertigkeit」の訳語としての「低能」、すなわち「(健康と病気の)中間状態」という用法よりも意味が拡大している*14

詳しくは茂木俊彦・高橋智・平田勝政の共著平田の諸論文を参照されたいが、当時の教育学者である森岡常蔵が

低能児と云ふ意味がまだ十分明白でなくて人々によって区々に解せられて居るように見える。
(略)
独逸語の「ミンデルヴェルチヒカイト」(Minderwertigkeit)を訳したようにもあり、或は「シュヴァッハジン」(Schwachsinn)に当てゝあるようにも見え、又広い意義に用いた「イディオット」(Idiot)の訳語にもなって居るやうである。

(森岡1909:63)

と述べ、低能児教育施設である白川学園を創設した脇田良吉*15

確定した定義の下せないのが低能児の低能児たる処ではありはしないか

(脇田1912:34)

と述べ、榊も

低能ナル語ハ用ユルニ堪ヘザル程ノ非常ニ多クノ意味ヲ有ス、故ニ其定義ヲ定ムルコト殆ンド不可能ナリ

(榊1909:430)

と述べているように、教育学用語としての「低能」は「能力の低いこと」を意味するという共通認識はあったものの、統一された明確な定義付けがされないまま、多くの教育関係者によって、多様な使い方をされていた。
明治末から大正にかけて多用された教育学における「低能」は、やがて「精神薄弱」に取って代わられていった(茂木・高橋・平田1992)(平田1993c:160-161)
なお、20世紀初期の社会事業の分野においても、片山の「低能」より広義な「低能」が乙竹らによって用いられ、やがて「精神薄弱」に取って代わられた(平田1995a)(平田1995b)

「低能」の一般語化

新聞における「低能」の用例を、朝日新聞社の「聞蔵Ⅱビジュアル」、読売新聞社の「ヨミダス」、毎日新聞社の「毎索」、神戸大学附属図書館のデジタル版新聞文庫で検索した結果、『朝日新聞』1907(明治40)年7月5日朝刊p.4の記事「東京市小学校長会議」中に登場する

伊澤修二、元良博士両氏の低能児教育に付学理及経験上の講演ある筈

という使用が最も古い*16

文学作品においては1910(明治43)年6月1日の『朝日新聞』朝刊p.3に掲載された夏目漱石の『門』(十八の六)に登場する

恰も一個の低能児であるかの如き心持を起した。

が、現在確認されているうち最も古い用例である。

1912(大正1)年には『低能』と書いて「ばか」とルビを振るタイトルの小説(著者は深尾葭汀)が出版されている。

1910(明治43)年の後藤朝太郎『日用と教育上に於ける漢字の活用』「附録の三、新語のかずかず」に「低能児」が当時の新語として掲載されている(語釈は無し)のを始めとして、「低能」は新語辞典の類に取り上げられるようになる。
まず、1914(大正3)年の『現代文芸新語辞典』には

テイノー〔低能=Low ability〕 能力が普通人より劣りてあること。

という語釈で掲載されている。
1919(大正8)年の『模範新語通語大辞典』には

【テイノー】低能、先天的欠陥のため脳の働きが普通人より鈍き者を言ふ。白痴といふに等し。

とあり、1925(大正14)年の『最新現代用語辞典 大正拾四年版』には

テイノウ(低能)人並みの脳力を持ってゐないもの幼時脳膜炎に罹ったものによくある。普通間抜馬鹿の意に用ひられる。

とある。
1927(昭和2)年の『新時代語辞典』には、

能力の普通の人より劣ってゐること。ばか。

と記されている。
他には1920(大正9)年の『現代日用新語辞典』と1926(大正15)年の『外語から生れた新語辞典』が、「能力が劣っている」という語釈を載せている。

国語辞典においては1898(明治31)年の『ことばの泉』、1912(明治45)年の『大辞典』、1914(大正3)年の『辞海』には「ていのう」の項目自体がない。
1917(大正6)年の『大日本国語辞典』には「ていのう」が立項されており

てい-のう{低能(名)智能の発育の甚だしく不良なること。

と、現在の辞書と同様の語釈が記載されている。
1934年(昭和9)年の『大言海』には

ていのう(名)低能〔能ハ脳ノ意〕アタマノ、ハタラキノ鈍キコト。又、智ノ足ラヌモノ。痴愚ト正常状態トノ中間ニアルモノ。ウスバカ。ウスノロ。 

とある。
「能ハ脳ノ意」という記述の根拠が不明であるし、「中間ニアル」という片山の「低能」的な意味が取り上げられているが、知能面に重きが置かれている。

このように、一般社会で使用されるようになった「低能」という言葉は、大正時代にはすでに、現在の辞書に記されているのと同様に、精神能力の中でも知能の低さを意味する言葉として、「間抜け」や「馬鹿」の同義語として用いられていたことが分かる。
先に見たように、「低能」はもともと、「(精神)病と健康の中間状態」を意味する法医学・精神医学用語として考案されたものだった。
現在では「低能」は「知能が低い」という意味の言葉として辞書に記載され使用されているが、これは医学用語から教育学用語を経て派生した一般語としての用法だと言える。

低脳」について

「低能」の最古の用例は片山國嘉の講演録(片山1899)中にあったが
低脳」の最古の用例も片山の講演録(片山1902)にある。
(片山1899)とほぼ同じ「中間心」(中間精神状態)についての説明の後、

精神健康にして且つ身体の完全なる者を完脳者とすれば之に中間心の者を比するときは低脳者と名づけます

(片山1902:13)

と書かれている。

片山による前後の用例はすべて「低能」になっていることと、片山が校閲した門脇真枝*17の『精神病学』(1902)でも「低能」が使われていることから、この1902年の「低脳(者)」は講演を記録した者による誤りであると考えられる。
「完脳者」も、正しくは「完能者」であろう。

新聞における「低能」の最古の用例は1907年7月5日の『朝日新聞』にあったが、「低脳」の用例はそれより1年以上早く、『朝日新聞』1906(明治39)年5月6日朝刊の「直訴者の不起訴」という記事で、その年4月末の大観兵式の際、鹵簿に直訴を企てた男について取り調べた結果、

純然たる精神病者にはあらざるも所謂低脳者にして殊に不敬の故意ありとは認められず

不起訴になったと記されている。
この記事を書いた記者は片山の講演録を読んでいたかもしれない。

「低能」流行期の教育関係の文章においても、(記者などによる)誤記と考えられる「低脳」が見られる*18

文学作品においても、夏目漱石の『門』(1910)における「低能」の使用よりも「低脳」のほうが1年以上早い。
使用しているのは石川啄木で、1909(明治42)年2月の『スバル』第2号に掲載された『足跡』p.131に

それは生来の低脳者で

とある。
青空文庫を手がかりに調べると分かるが、坂口安吾が「低脳」をよく使っている*19他、岸田國士『医術の進歩』での用例太宰治『道化の華』での用例もある。

このように、「低能」はすでに明治時代から「低脳」と書かれることがあった。
これは「低能」の「ノウ」の音が精神能力・知能を司る器官「脳」と同じであることによるものと考えられる。
また、「脳力」という言葉も当時使われていた*20から、「脳力が低い」という意味で「低脳」を使用した者もあるかもしれない。

さて、この「低脳」は誤った日本語、言葉の誤用と言うべきかどうか?
私見を述べると、明治・大正・昭和の法医学・精神医学・教育学上の学術用語としては「低能」と書くのが正しい。
しかし一般語化し、知能が低いという意味に限定され、「馬鹿」や「間抜け」と同じような意味で用いられるようになった「低能」については、「能」を「脳」に置き換えたり、「脳力が低い」という意味を込めた「低脳」も、より俗的ではあるが、誤りとは言えない。
この「低脳」を誤りとするなら、「低能」を知能面に限定して使う現在の用法にも、「本来の用法とは異なる」という但し書きを付けざるを得ないだろう。

なお、国語辞典においては「ていのう」の漢字表記として「低脳」を収録しているもの(『日本国語大辞典』など)、「低脳」は誤りとしているもの(『新選国語辞典』)、両者が存在する(例示した辞典は、どちらも小学館発行)。

参考文献

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中谷陽二(2008、旧版2003)「人格障害と刑事司法―精神医学史的考察 2.Kochの精神病質低格とその背景」、新宮一成ほか編『新世紀の精神科治療 第5巻 現代医療文化のなかの人格障害』新装版pp.57-61、中山書店
中谷陽二(2013)『刑事司法と精神医学 マクノートンから医療観察法へ』、弘文堂

長野城山学校百年史編集委員会編(1973)『長野城山学校百年史』、長野市立城山小学校

中村満紀男編著(2018)『日本障害児教育史[戦前編]』、明石書店

樋口長市(1908)「再び低能児の教育につきて」、『教育研究』第48号pp.1-10、初等教育研究会・不昧堂出版
樋口長市(1911)「低能といふ語について」、『教育之実際』第5巻第10号pp.80-84、教育実際社

平田勝政(1993a)「戦前の教育学分野における「精神薄弱」概念の歴史的研究 ―教育学者の乙竹岩造と樋口長市の検討を中心に―」、『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第44号pp.59-78、長崎大学教育学部
平田勝政(1993b)「戦前の教育実践分野における「精神薄弱」概念の歴史的研究Ⅰ(上) ―東京高師附小「特別学級」歴代担任教師の検討を中心に―」、『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第45号pp.139-152、長崎大学教育学部
平田勝政(1993c)「戦前の教育実践分野における「精神薄弱」概念の歴史的研究Ⅰ(下) ―東京高師附小「特別学級」歴代担任教師の検討を中心に―」、『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第45号pp.153-167、長崎大学教育学部
平田勝政(1994)「戦前の社会事業分野における「精神薄弱」概念の歴史的研究Ⅰ ―社会事業関係雑誌における「精神薄弱」関係用語の検討を中心に―」、『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第46号pp.53-65、長崎大学教育学部
平田勝政(1995a)「戦前の社会事業分野における「精神薄弱」概念の歴史的研究Ⅱ(上) ―全国社会事業大会等における「精神薄弱」関係用語・概念の検討―」、『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第48号pp.73-88、長崎大学教育学部
平田勝政(1995b)「戦前の社会事業分野における「精神薄弱」概念の歴史的研究Ⅱ(下) ―全国社会事業大会等における「精神薄弱」関係用語・概念の検討―」、『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第49号pp.59-76、長崎大学教育学部
平田勝政(1995c)「明治期における「精神薄弱」関係用語・概念の検討 : 「低能児」概念を中心に」、『日本教育学会第54回大会プログラム』pp.114-115、日本教育学会
平田勝政(1996)「明治期における「精神薄弱」関係用語・概念の研究―「低能児」概念を中心に― 」、『日本教育史研究』第15号pp.33-65、日本教育史研究会

福島章(1993)「精神病質」、加藤正明ほか編『精神医学事典』新版、弘文堂

富士川游・呉秀三・三宅鑛一、(1910)『教育病理学』、同文館

南真紀子(2006)「榊保三郎と「優等児」研究 : 明治・大正期の優秀児教育論解明への一端」、『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要』第64号pp.19-36、慶應義塾大学大学院社会学研究科

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茂木俊彦高橋智・平田勝政(1992)『わが国における「精神薄弱」概念の歴史的研究』、多賀出版

森岡常蔵(1909)『近時に於ける教育問題の研究』、文昌閣

吉田栄次郎(1906)「低能者の処遇に就て」、『監獄協会雑誌』第19巻第2号pp.12-21、監獄協会

脇田良吉(1908)『注意の心理と低能児教育』、矢島誠進堂
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脇田良吉(1913)「低能児教育の実験」、『救済研究』第1巻第4号pp.332-347、救済事業研究会
脇田良吉(1915)『異常児教育の実際』、金港堂書籍

*1:2017年の『学研現代新国語辞典』改訂第六版、2019年の『三省堂現代新国語辞典』第六版でも同様。

*2:いしかわ・ていきち。1869(明治2)年生、1940(昭和40)年没。東京帝国大学医科大学卒業後、山形県公立病院済生館副院長、静岡県富士病院院長、東京府巣鴨病院医員、保養院院長を経て1913(大正2)年に巣鴨脳病院を設立。

*3:さかき・やすさぶろう。1870(明治3)年生、1929(昭和4)年没。東京帝国大学医科大学卒業後、同大助教授、欧州留学を経て1906(明治39)年京都帝国大学福岡医科大学教授(留学中に同大助教授に就任?)。1925(大正14)年「スタイナッハ若返り法」に絡んだ九大特診事件により辞職。兄の榊俶は東京帝国大学医科大学精神病学教室の初代教授。

*4:ひぐち・ちょういち。以下、教育学関連の人物については『人物でつづる精神薄弱教育史』、その増補版『人物でつづる障害者教育史』、その復刻版『特別支援教育史・人物事典』や『図説教育人物事典』などを参照されたい。

*5:かたやま・くによし、または、くにか。1855(安政2)年生、1931(昭和6)年没。1879(明治12)年(旧)東京大学卒業、同大助教授、欧州留学を経て1888(明治21)年東京帝国大学医科大学裁判医学教室教授。1891(明治24)年には「裁判医学」を「法医学」に改称させた。1897(明治30)年から1901(明治34)年まで、早世した榊俶の後を継ぎ精神病学教室教授を兼任。酒害論者・禁酒運動家でもある。

*6:片山の名の読みは、19世紀の東京帝大『CALENDAR』で「Kuniyoshi」(A)(B)とも「Kunika」(C)(D)とも記載され、『日本近現代医学人名事典【1868-2011】』などの辞典・事典類で「くにか」としているものもあるが、片山の著作物であるローマ字教本『羅馬字之仮名式遣方』では「Kuniyosi」となっているので「くによし」を主とする。留学先であるドイツの19世紀の出版物でも「Kuniyosi」となっている。

*7:改正前の刑法には完全責任能力と責任無能力の区別(旧刑法78条「罪ヲ犯ス時知覚精神ノ喪失ニ因テ是非ヲ弁別セサル者ハ其罪ヲ論セス」)しかなかった。

*8:Julius Ludwig August Kocharchive.org

*9:ただし当時のドイツ帝国刑法典には限定責任能力の制度はなく、コッホらが導入を求めていた。

*10:片山は「耗弱」という言葉は「すり減る」という意味だから、先天的障害の場合は当てはまらず不適当と批判している(片山1910:280)

*11:乙竹の学術講義を予告する記事が『読売新聞』1907年10月17日p.1に、国家医学会総会での低能児教育に関する講演を伝える記事が『朝日新聞』1907年12月2日朝刊p.4に、『低能児教育法』の広告が『読売新聞』1908年4月18日p.1、同年6月22日朝刊p.4、『朝日新聞』同年4月24日p.1に掲載されている

*12:Jean Demoor。

*13:ドモールの著作にある表乙竹の『低能児教育法』の表を比較。

*14:乙竹は1912年の『更訂 低能児教育法』にて「例へば子供の低能といふものと、大人の精神病的の現象或は精神病上の中間者とは、全然同じであるとは言へ無い所もある」とも「広義の低能といへば、所謂白痴をも含めて言ふのであるし、狭義の低能といへば、白痴を除いたもの、即ち低能ではあるけれども白痴ほど甚だしからざるものゝみを指す」とも述べている。

*15:ただし脇田は1913年に「低能児と申すと何だか子供の人格に検印でも押したやうである」から「低能児と云ふ言葉が甚だ不適当である」と述べている(脇田1913:334)

*16:神戸大学附属図書館のデジタル版新聞文庫では『法律新聞』の留岡幸助「人間の整理(上・下)」という記事が「19??.??.?? (明治33)」に発行された最古の記事として表示されていた(2015年2月頃確認)が、これは発行年月日の不明な記事であり、データ上1900(明治33)年発行として処理されたものと考えられる。

*17:かどわき・さかえ。1872(明治5)年生、1925(大正14)年没。済生医学舎卒業後東京帝国大学医科大学助手を経て王子脳病院院長、東京精神病院院長、横浜脳病院院長を務めた。

*18:例えば明治39年の第一回全国小学校教員会議録p.151下段や『元良勇次郎著作集』第11巻p.288で確認できる。長野県松本尋常高等小学校の例も報告されている。

*19:全てではないが初出雑誌でも確認。安吾の文章には「低能」も見られるが、意図的に使い分けていたかどうかは不明。『東京ジャングル探検』は初出の『文藝春秋』1950年6月特別号では「低脳」(低腦)が使われているが、没後、同誌1972年2月特別号の再録では「低能」になっている。

*20:例えば夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』上p.161、6行目